昭和四十七年七月十二日 朝の御理解
x御神訓
「信心する人は何事にも真心になれよ」
真心になれよと、信心とは真心の追求と言うてもいいと思うのですねえ。けれども何事にも真心になれよとあります。ですから真心とゆうものが、こんなに有難いものだと、真心でなさしてもらうのは、こんなに気分がいいものだと、ゆう事をやはり体験して参りませんとね。何事にも成程真心にならなければ相済まん、馬鹿らしいとゆう事になるのじゃないでしょうかねえ。
ですからせめて神様の事とゆう時には、ひとつ真心にならしてもらう。そして成程真心は神様が受けて下さる。真心はこんなにも気分のよいものだと、又真心とはこんなにもよい環境、関係を作っていくとゆうような事の体験をさせてもらう。そこからね、これはもう神様の事だけではない、もう所謂どのような事の中にでも、真心をもってしなければ本当のよい幸せな生活とゆう事にはつながらないとゆうところ迄分からせて頂くところから、なす事言う事全ての中に真心とゆうものが自ずと出てくるのではないかと、こう思うのであります。とりわけ、だから、とりわけひとつ本当に事、神様の事、神様事だけには、ひとつ本気で真心にならしてもらおう、真心を稽古させてもらおう、真心をもってとゆう事になる訳です。それをお互いは御用だと言うております。
そこでなんですけれども、その打ち込むとゆう事がね、そんなら合楽の場合は皆さんが合楽に打ち込まれる、親先生に打ち込んでゆかれる。まあ親先生の信心に打ち込んでゆくとゆうのが本当でしょう。ですから、その私は間違いがないと思うのですよ。御用とゆう事はどうゆう事かと言うとね、神様のお働き、その言うなら神様のお働きのお手伝いをさせて頂くとゆう事になりましょうか。だから、その合楽教会自体が出来たとゆう事は、これは神様の働きですよね。私が作ったんじゃないでしょうが。成程神様が率先して合楽教会は誕生したんだと。例えばこの御造営なら御造営でも、これは私が思い立って、こうゆう御造営が出来た。今度の西脇殿の御造営なんかでも、成程神様が思い立っておられるのだとゆう事がはっきり分かる。所謂言うならそれが神様の働きなのですから、その神様の私共が手になり足になりさせて頂くとゆう事が御用なんです。本当の御用なんです。
ですからここにあまりに御用御用と言う事をお道の信心で使うようになりましたから、本当の御用とゆう事にです、御の字をつけなければならないようにです、あの御事柄とゆうあれとは一寸意味が違いますよ、私が今日話しておりますのは・・・御ご用とゆう事にならなければいけないと。神様の働きのスムーズに成就する事の為に、その神様の言うなら手にもならせてもらおう足にもならせてもらおう、どうぞ御ご用にお使い下さい、お使い回し下さいとゆうのが本当の御用なんです。、只教会でする事だけを御用と言うけれども、神様の働き、神様の生き生きとした、そうゆう働きとゆうものを感じられないところで、例えばそんなら御用したとしましょうか、それはだから御用にはならんです。
例えば、私はこれは例を言うならば、そんなら先生が例えば建築を思い立ってござるとしましょうかねえ、教会に、先生が自分で設計して、こげんしたいあげんしたいと言うて、信者と相談して建てなさるとしましょうかねえ、そうゆう所は沢山ありますよ。だからそんならお供えさせて頂こう、いろんな奉仕に出らして頂こうとゆう事を、まあ御用と言われん訳じゃないけれどもです、それは私が言う御ご用ではないとゆう事になります。神様が率先して働いてござるとゆう事を見極めて、その神様の手にもなろう足にもなろうとゆう時に、所で初めて神様の御ご用とゆう事になるのでしょうが。だからここぞとゆうところにです、私共見極めをつけて、そんなら御用させてもろうたら、それが御ご用でありますから力も受けるお徳も受けるおかげも受けるとゆう事になるのです。
これは大体御用とゆう事はね、例えばそんならお互いの、百姓してる人は百姓が御用である。商売してる人は商売が御用である。例えば高橋商店とゆうお店がある。成程名称は高橋商店であっても、言うなら三福寿司であっても、それが高橋さんの三福寿司であるのに、それを御用御用神様の御用と言うのは一寸はずれておる。それは私用です。自分の為の我情我欲のお店であるとするなら。だからそこんところの観念がね、神様の御店として頂けれるように本当に、これはやっぱり稽古ですよ。そして実際にやっぱり体験積んでいかなければ出来ません。成程自分の店のように思いよったけれども、これは神様の御店だなあと、自分が実感させて頂くようになったら、そこで働く事は、もう御ご用になります。
ですからこの辺のところを、何もかも神様の御用とゆう事は、だから私はその御用があんまり煩雑になったから、御ご用とゆう風に申します。例えばとりわけ、そんならお取次の御用といったものは、それこそ神様の願い、神願が成就する事の為に、ここがあるのです。神様の願いが成就する事の為にあるのですから、私共ここへ座って神様の心を皆さんへ伝えさせてもらい、皆さんの願いを神様へ伝えさせてもらい、それが御ご用なんです。神様の願いを受けての事ですから。
ところがここに座っとる先生が、形は同じであっても、私の生活の為に、もし座っておるとしたらどうでしょう。それはいかにも御結界であります。成程紋付袴を着けた先生であってもです、それは言うならその人の私用でしょう。だからそうゆうところでは人は助かりませんよね。だから他所の教会の事をとやこう言うのではありません。だから結局合楽の事を言うならば、私の事であり、ここで行なわれておる神様の働きそのものを、まず見極める事なんです。見極める事が出来るから、成程親先生は、神様に使われてござる人だなあと思うから、親先生に打込んでいく事が徳を受ける事にもおかげを受ける事にも繋がるのです。
成程神様が率先してござる御造営だと思うから、だから分からなければいけん。だから分かったが最後、今日の御理解で言うなら真心にならなければいけないとゆうのです。只御造営がありよるけん、まあ付き合い、言うなら日頃はお世話になりよるけんこげん時位させてもらわにゃとゆうような事であったら、それはもう義理人情ですからおかげにはならん。神様の働きとまず分かったら、その神様のそんなら手にもならしてもらおう、足にもならしてもらおう。なさしてもらう事は、本当に力もない私の事ですから大した事は出来んに致しましても、出来る限りの、そんなら真心を持って神様の手にもなろう足にもなろう。でなからなければ神様の手にも足にもなる事は出来ません。
だから今日私は、そうゆう神様事の上にだけはです、ひとつ本気で真心を追求して、その真心をもってなさせて頂こうとゆう事になろうとゆうのです。信心する者はね、何事にも真心になれよと、そしてです、成程真心になるとゆう事がこのように素晴らしい事だとゆう答えが出てこないならば、まだまだ皆さんの真心とゆうのは本なもんじゃないです。そうでしょうが、成程真心とゆうものは、こんなに素晴らしいものだ、こんなに気分がいいものだ、こんなに有難いものだとゆう事が分かるから、今度家に帰っても、そんなら自分の周辺の事柄に対しても人にしても、真心をもってしなければ相済まん事になり、まあ極端な言葉で言うと、真心にならなければ馬鹿らしいとゆう事になるのです。だから初めに何事にも真心になれよと。
ここで例えば皆さんがです、私がここ四、五日体を悪くしております。けれどもその病気とても神様の御都合だと、神様が親先生を通してお働きかけて下さっておる病気だとゆう風に皆さんが信じて下さるならばね、そこから真心の手立てとゆうものは自ずと出来てくる訳です。
昨日も一時の御祈念が終わってから、終わった途端でした、又お腹が痛みだしたのが、ですから久富さんの奉仕を受けさせて頂いて、もう四時も五時もありましたでしょうか、丁度高橋さんが何度目ですかみえられまして、私の部屋にみえて頂いた。それから丁度その時でしたが、久富さんから、こうゆうようなお届けがありました。「今日、親先生お夢を頂きました」と。もう夜も昼もないようにして御用して頂くもんですから、丁度朝の御祈念の後に、お食事が済んでから、一寸横にならせて頂いて休ませて頂いとったらお夢を頂いた。それがたかぁい山である。まあ高良さんのような所が、その高い山の上にある。そこに見事なお手洗石がある。そのお手洗石を一生懸命こうこうやってさすりよった。そしたら真ん中からですねえ、もうそれこそ渾々として水が湧いてきた。それから下を見ますと、ずうっと、こう田や畑がありまして、その田や畑にあらゆる機械、耕耘機とか、いろんな機械が入ってもう、どんどんその耕しがあったり、整地があったりしておるお知らせを頂いた。もうそれは久富さんから実感は聞いて頂かなければ分からないのですけれども、後で皆さんに話しておられましたのが、もうそれは本当にあげなお夢を頂くなら有難うして有難うしてと、言うておられます。
それは久富さん、高い山、しかも高良さんのようなとゆう事は、高度の神様、高度の信心、もう合楽の信心は、所謂金光様の御信心はと言うたがいいでしょうか、は、もう最高度の信心ですよねえ。所謂高度な信心、本当に程度の最高に高い信心をお互いがさせて頂いておる。お手洗をこうやってさすりよったとゆのは、それは私が腹ばさすりよるとじゃろうと申しました。そしてそげなおかげば頂くなら、誰でん親先生の腹をさすりたいと言うじゃろうのと言うてから話した事でしたけれどもね。只さすっただけでおかげ頂くとじゃないです。言うなら今日の御理解、そうさせてもらわなければおられない、とゆう真心が、そうゆう結果になるのです。そらもう親先生の腹さすりゃ渾々と湧くようなおかげ頂けれる。どうでんこうでんさすらせて下さい、と言うてから、そうにゃさすり手が多うなると思いますけどね。さすっただけじゃいかんとです。それが真心でなからにゃいかんとです。あちゃあ、あんた今そうゆうお知らせ頂いたの。実は私も、ほんの今、そのお届けを聞く、ほんの寸前に頂いたのが、今聞いて頂いた御用とゆう事でした。
御用とは、本当の御用とゆう事は神様の働きにですね、神様の働きとゆうものをそこに見極めたなら、その神様の手になり足になる事が本当の御用だとゆう事。ここんにきはね?、御用御用と言うけれども、今日初めて聞いて頂いておる事ですからね、ようと頂かにゃいかん。今日の御理解は信心する者は何事にも真心になれよ、とおっしゃるのですから、そんなら真心になって打込んだと思うてもです、打込んで答えもなぁも出てこないならね、それは本当の神様の働きじゃないところに打込んでおるんだとゆう事も言える訳です。
そこで、ここで皆さんが見極めなさらなければならんのですけれども、成程合楽の御広前は神様が建立しなさったんだなあ。親先生は、成程神様に使われている人だなあ、今度の西脇殿の御造営も神様が率先して、始めておられるのだなあとゆう見極めがついたら、本気で真心で打込みなさいとゆう事。それが神の手になり神の足になる事ですから、必ずおかげ頂かれる、徳が受けられる、力が受けられるとゆう事になるのです。親先生は成程神様に使われておる人だなあとゆう事をです、そんなら久富さんの場合なんかは、いろんな場合にそれを体験される訳です。家からも電話が掛かってきよる。けれどもお前どんが大ごつじゃろうけれども、一寸いっときばっかり合楽でこうやって御用させてもらうから、と、もう何日間ですか、泊込みで御用して頂いているのですけれども。それがこうやってお手洗石をさすっておるようなもの。その中から渾々と水が湧いてくるとゆう水に触れられるとゆうおかげ。久富さんがお百姓さんですから、田圃やら畑やらでお知らせ下さったんでしょう。自分がもう鍬持って耕すとじゃなくて、神様がね、例えば夢のような話じゃないかなんて言わずに、本当に金光様の御信心は夢のようなおかげが受けられるのが信心です。
丁度高橋さんがみえておりましたから、高橋さんが丁度、今日の御用の事でお届けがありまして、本当に先日から、もう小倉と黒崎に立派な店が二軒出来ました。それこそ只もう膳?の前に座るだけの感じ。ところが又先日から、これはもう博多のハイクラスの商人が集まって、今度商店街が出来る。そこへどうでも沢山な一流の店はあるのにもかかわらず、高橋さん、どうでもひとつお宅にとゆう話の、話合いが昨日あったんです。それが丁度昨日警固であったそうですから、丁度食事を、いづ定のお店の方でだった。勿論その主催者の持ちでしたけれども、結局期せずして高橋さんのお店で。そしていろいろ話させて頂いておるうちにです、もう唯々驚いてしまう恐れ入ってしまうとゆう話が進展していきよるとゆう事です。もう本当に神様が夢のようなおかげとゆう事を今私が申しましたがね、そんなら高橋さんがどれだけ合楽の神様が生き生きとして働いてござる、その働いてござる神様の手に足になっておられるかとゆう事が、ようやく十何年ぶりに実を結んできたとゆう感じですよ、最近。昨日も「親先生、この事が段々話が進んで参っておりますが、相当の金が要るけれども、おそらく今度は小倉と黒崎の方の店だけで、丁度十一月のオープンになりますから、その頃には、あちらの利益がそこへ資本に持って来れば丁度いい位になりゃせんじゃろうかと思います」と言われるからね、「高橋さん、そげな当てどんしなさいますな」と私が申しました。当てにすると向こうからはずれるよと。神様がおかげ下さるのだから、そげな当てにしちゃでけんと言うて話した事ですけれども。
本当に神の御用をたせば氏子の用は神がたしてやるとおっしゃる、その神の用をたすとゆう事なんです。言うならばそれを只教会に打込んでおりさえすれば、事神様事であるから打込んでおりさえすればとゆう事ではなくて神様の働きを見極めての、それでなからなければいけないとゆう事。私の腹をさすって下さるでも、親先生は神様に使われておる人だと確信が出来なければ出来る事じゃなか。成程合楽教会に打込ませて頂くとゆう事は合楽教会自体が神様の御働きの中にあって神様が率先しておられるから私共信者氏子は、その手になり足にならせて頂こうとゆうのでなければ神の用をたすとゆう事にならん。只お参りしよるけん、お供えも時々にはせにゃん。まあ御建築がありよるけんで、御造営費を少しゃお供えせにゃ気の毒かちゅうごたる事じゃいかんて。いくら神様の働きがありよっても。
私は今日はね、何事にも真心になれよとゆう事を、真心と、ここでは表現しておられますから。だからせめてそんなら神様事、しかも神様の働きが生き生きとしてあっておるところにです、中途半端の御用どもしたっちゃ御用が御用にならん。本当に神様の手にならして下さい、足にもならせて下さいと打込んでこそ初めて神の御用とゆう事にもなる。だから氏子の用は神がたしてやろうとおっしゃる時には、もうそれこそ棚から牡丹餅のような感じ。夢のようなおかげに展開してくる訳なんです。真心、もうひとつの頂き方、もうひとつの見方、これは私共の生き方の上にです、どうゆう例えばそれが問題であろうがです、決して人のせいにしない事。今日はその事が「道の光」と頂きました。
例えばそこに難儀な問題が起こっておっても、あれがあげんしたけんこうなった、てんなんてんこれはもう信心の道じゃないです。所謂真心の道じゃないです。自分の心の中に持って来なけりゃいけん。自分の生き方を改めていかなければいけん。そうゆう道が光の道だ。そうゆう思い方が真心なんです。
今日は、そうゆう思い方が真心、そうすると折角信心させて頂くのですから、真心打込もうと、そんならそこにはっきりと神様の働きを見極めたらです、本当に神の手にもなろう、足にもならせて頂こうとゆう願いをもっての御用であって、初めて御ご用とゆう訳じゃないでしょうか。だからこそ神の御用をたせば氏子の用はたしてやるとおっしゃる程しのです、おかげになってくる。神様が氏子の為に働いて下さる。氏子の用は神がたして下さる程しのおかげとゆう事になると、高橋さんが最近体験されておるようなおかげになってくるのです。
例えばああゆう大きな店を十軒も持っとったら、それはもう一番仕事盛りでしょうねえ、年配で言うたら。それこそ目は血走ったようにして、毎日毎日夜も寝らんようにして、さあどこの店はどうのこうのと支配して回らんならん。「それはそうにゃ心配な事じゃろうの高橋さん」と、私が、あんた合楽におりさえすればよかけん、今度はどうでんこうでん、いっちょ合楽へあんたげの事務所を作りなさい、と昨日言うた。そしてボタンをひとつ押せば、そんならどこの店にでも、そうゆうお届けがありました時、私は丁度休んで夢を頂きよった。久留米に荘島町とゆうのがあります。元は荘島町は昔は武士屋敷のあった所でした。そこの家の軒先でね、お寿司を所謂作って売っておられるところを頂いたんです。もう本当に親先生、段々店も貧弱な店から立派なハイクラスの人達と対等に、こうやって商売が出来るような、同じ寿司屋でもピンからキリまであるんだと。その言うなら高級な店が段々持てれるようになってきたとゆうお届けでしたけれども、神様の目からご覧になると、まあだ高橋さん他所の軒下で握っとる位のお寿司屋さんよと、神様のおかげ下さろうとするおかげは、まあだまあだこん位じゃなかよと言うて話した事でした。ですから本当にね、神の手になろう足になろう、しかもそんなら神様の働きと見極めたらよ、だからまず見極める事が第一。合楽は本当に、或る先生じゃなかばってん、大坪さんは中々商売人じゃから、信者にお供えさせ上手だからあげなもんが出来たと言わっしゃた。成程お供えさせ上手かもしれんたい。お供えで出来とるんじゃけん。けれども果たして本当にそうだろうか。そうじゃあない、神様の働きがあってこそ、もう本当に神様の働きを、そこに感ずる。だからその神様の働きに合流させてもらうと言うか、手にならしてもらう足にならして頂くとゆう人達で合楽の教会は立っておるんだと。為には、だからそこんところをまず見極めさせてもらわにゃいかん。本当に親先生ちゅう人は神様から本当に使われてござる人か。成程合楽教会は、本当に神様が率先して御造営になったんだ。言うなら合楽教会が出来た、その事がです、神様の願いで出来たのかとゆう事を見極めがついたら、あなた方はもっともっと本気で打ち込みなさいませ。そして本当に神さまの手になり足になる事の喜びをですね、感じさして頂けるおかげを頂けるようになったら、播いたから、もう芽が生えるとゆう事じゃありません。
昨日高橋さんと話した事ですけれども、ほうらこうして芽が出てくる迄は十年間かかっとるもんのと言うて話した事でした。ですからどうでもそこんところの信心をです、信心折角させて頂くならば何事にも真心になれよとおっしゃる。その真心にならしてもらわなければ本当に相済まん馬鹿らしかとゆうところ迄信心を分かっていかにゃいけんと思うですね。どうぞ。